みずほ銀行で常務執行役員まで務めた大櫃直人氏が、2026年9月、『「伝説のバンカー」と呼ばれた男』を刊行した。スタートアップ支援の経験から、顧客との向き合い方や現場主義を説く。
「気配値」で人を見極める
「伝説のバンカー」「リアル半沢直樹」と呼ばれる大櫃氏。前身の富士銀行を含め37年間勤めたみずほ銀行を2025年3月に退職した。銀行員人生の大きな転機となったのが、50歳を前に渋谷中央支店でスタートアップと出会ったことだった。
当時、メガバンクがほとんど目を向けていなかった新興企業を訪ね歩き、メルカリやマネーフォワード、タイミー、ソラコムなどの成長を金融の立場から支援。創業3年目のメルカリから10億円の無担保・無保証融資を求められ、行内を説得して実現させたエピソードなどを通じ、「人や企業をどう見極め、どう伴走するか」が語られる。
常務執行役員まで上り詰めた「伝説のバンカー」の成功譚でありながら、決して一直線のエリート物語ではない点も本書の魅力だ。若手時代には大きな失敗から懲戒解雇寸前まで追い込まれ、上司や顧客に支えられながら再起した。失敗し、叱られ、助けられた経験を、その後の顧客支援へと還元していく。そこには、数字や営業手法だけでは説明できない、「この人を応援したい」と周囲に思わせる大櫃氏の人間力も浮かび上がる。
大櫃氏の営業は、初対面から融資や資金繰りの話をするところからは始まらない。なぜ起業したのか、組織の状態はどうか、何に悩み、5~10年後にどうなっていたいのか。まず相手に話してもらい、その言葉や反応から人物や企業の本質をとらえようとする。
こうして長年の経験から培った企業や経営者を見る目を、みずほ銀行の後輩が分析し、「気配値」と名付けた。「夢の語り方」「事業に対するコミット力」「人間としてのバランス力」「強い経営チームとガバナンス」の4点からなる判断軸で、その要素の一部は現在も、みずほ銀行内でスタートアップの与信判断に使われているという。もっとも、数値化された基準ではなく、あくまで定性的なものだ。
そして、こうした判断を支えるのは勘だけではない。VC(ベンチャーキャピタル)や顧客を訪ねて集めた大量の一次情報と、同じ企業を継続的に観察してきた経験が土台にある。融資を断る際にも、何が改善されれば次につながるかを伝え、取引先や人材を紹介する。「融資できるか否か」で関係を終わらせず、相手の成長に関わろうとする姿勢が一貫している。

現場で磨く顧客への伴走力
本書で繰り返し語られるのが「現場」の重要性だ。顧客との接点を増やし、話を聞き、仮説を立て、その後に「答え合わせ」をする。こうした積み重ねが判断力や提案力を磨いていくという。重役になっても年間1,000社以上を訪ねたという行動量は簡単にまねできるものではないが、その実践から抽出できるヒントは多い。
営業の実践論も具体的だ。顧客への提案は1つではなく3つ用意する。「ギブ&テイク」ではなく、まず相手に価値を提供し続ける「ギブ&ギブ&ギブ」を貫き、人と人をつなぐ。目先の取引ではなく、長い関係を築こうとする姿勢が随所に表れる。
さらに生成AI(人工知能)の進化で書類作成やデータ処理が代替されても、現場で顧客の細かなニーズを感じ取り、信頼関係を築き、最適な提案をする仕事の価値は残ると大櫃氏はみる。そして銀行の仕事は今後、お金を扱うだけでなく「コンサルタントに近い仕事」になっていくと説く。
スタートアップ支援を題材にした一冊だが、描かれているのは金融機関で働く人に共通する顧客との向き合い方でもある。商品や情報がデジタルで簡単に手に入る時代だからこそ、相手を知り、課題をとらえ、複数の選択肢を考え、継続的に伴走する。投信販売の現場にとっても、商品を「売る人」から「相談される人」へと一歩踏み込むためのヒントが詰まっている。

スタートアップを圧倒的に成長させる仕事術
(日本経済新聞出版刊・税込1,870円)





